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放射能測定器

​代表プロフィール

3回の原発事故体験

私は福島市出身で地元の女子高校を経て法政大学の地理学科に進学しました。

4年生の春にアメリカのスリーマイル島で大規模な原発事故が起こりました。

日本は2度も原子爆弾を投下され核の恐ろしさを十分知っているはずでした。にもかかわらず、高度成長期の日本においては「原子力は未来のクリーンで明るいエネルギー」というスローガンのもと、日本各地に次々と原子力発電所が建設されていきました。ノンポリ女子学生だった当時の私は、漠然と原発推進に賛成だったと思います。

私は卒論で「福島原子力発電所周辺住民の原発反対運動」について書きましたが、それはたまたま私の故郷に大きな原子力発電所があったからです。一歩間違えばスリーマイル島のような原発事故が起こり放射能をまき散らします。原子爆弾と原発事故と一体何が違うのだろう。また、私の故郷の人々はその恐ろしさを認識していたのだろうか。素朴な疑問でしたが、当時の無知な一女子学生に過ぎない私の調査など、到底「調査」と呼べるようなものではなく「福島原子力発電所建設の地元住民の反対運動はなかった」の一言で片づけてしまいました。あんな稚拙な卒論でよく卒業ができたと今思えば赤面ものです。

 

半世紀近くも前のことで記憶が定かではありませんが、私が学生の頃に大熊町を訪れた時の印象はこんなでした。まるで熊でも出てきそうな鬱蒼とした森の中の一本道を車で奥へ奥へと進むと突如白亜の殿堂のような建物が現れたのです。発電所の入り口近くのビジターセンターだっただろうと思いますが、人気が全くなく不気味なほどにシーンとしていました。そして「こんな、人なんて全く住んでいないようなところだったら、そもそも反対運動なんて起こるわけがない」と思ってしまったのでした。もう一つ、そこを訪れて気づいたことがありました。福島原子力発電所なのに、その電力の提供先は福島ではなくて東京だったことです。東北電力を使用している福島の人々にとっては、東京電力は月々の電気代の請求書上に表れない、一見、自分たちには全く関係のないよその国の電力会社と同じだったのです。

その後結婚をし夫の駐在に伴い1983年から87年までの4年間をブルガリアで過ごしました。

次男を妊娠中の1986年春、今のウクライナ(当時はソ連領)にあるチェルノブイリ原発事故が起こりました。直接国境は接していないものの、黒海を挟んで隣の国です。風向き次第では放射線が飛んでくる。ブルガリア中がパニック状態となりました。堕胎した人もいると聞く中で、私は日本大使館を通して送られてくる日本からの保存食だけを頼りに、食事に注意しながらおなかの子を守ろうと必死でした。結局最後は日本に戻り里帰り出産をしましたが、妊娠初期に体験した原発事故は子供が成長しそして何歳になっても、なぜか負い目として私の心から消し去ることができないでいます。

大げさだと笑われるかもしれませんが、当時共産圏だったブルガリアで、言葉もわからず情報も乏しく、原発に対する知識もない中、ただただ、自分のおなかの中に宿った新たな生命の健やかな成長が脅かされるのではないかという恐怖にかられていました。(だから、命からがらウクライナから逃げて言葉も文化も異なる日本にやってきたウクライナ難民の方々、特に子供やその母親たちのために、何か力になりたいと思うのです。)

1987年に一旦日本に帰国し、1991年に渡米し2005年までアメリカにおりました。その間、ペンシルバニア州フィラデルフィアには7年ほど住んでおりました。同州の州都はハリスバーグにあり、何かの手続きで車で訪れたことはありましたが、その時は自分の卒論のきっかけとなったスリーマイル島がその地にあることに気づかず、また観光地でもないため、実際にその現場を訪れたことはありませんでした。今グーグルアースで見ると、都市近郊の河川の中州に位置しています。

そして日本に帰国後住んでいた千葉県浦安市は、2011年の東日本大震災で液状化被害による被災地となりました。

その時、私の故郷福島では史上最大規模の原発事故が発生していました。自然災害が原因で引き起こされた災害かもしれませんが、人類のおごりが生んだ結果とは言えないでしょうか。

事故から10年以上が経った今でも、福島の私の実家横にある、子供たちの姿の見えない子供たちのためのアスレチック公園には、その場にそぐわないような白い放射能測定器がまるでロボット警察のように、太陽電池のエネルギーで今も毎日放射線濃度を表示し続けています。一体いつになったら放射線の数値を気にすることなく、親が子供たちを自由に遊ばせることができる日が来るのでしょうか。それを見るたび心が痛くなります。

ふと自分の半生を振り返ったとき、私は、偶然にも日本、ヨーロッパ、そしてアメリカで、私はそれら3大原発事故の発生地の近くに存在していたのだということに気づかされました。

​この地球を傷つけずに、太陽と地球が作り出した再生のサイクルを狂わせずに、私たちの未来が続くことを切に願ってやみません。

​株式会社あるまち 代表 菅野陽子 2022年3月

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